桜餅哀歌

okimituki2006-02-28

  今日はまたシゴトでもう最近では恒例のような同じようなミスをしでかしてしまい、ややヘコみぎみです。うーむ 2月も終わりだし、いい感じで3月を迎えたかったので、それなりに手を打っておいたはずだったのにな。ま、過ぎたことには絡むまい。あしたからまた立ち上がれば、よい よいと

 というわけで、今晩はたけのこハマグリご飯をいただいた。すこしづつ口の中からは早くも春がやって来ている
 さっき桜餅の映像をちらっと見たら、もう頭の中は桜餅のことばかりになって、あのほわりとした桜の香りとか、ちょっぴりしょっぱい塩漬け桜の葉をついつい思い浮かべてしまう
 うちには木の葉の形の一枚板を彫って作られたマホガニー色の和菓子専用小皿がある。もう、そこにのっかった桜餅を想像するだけでなんだかその日が来るのが愉しみになってきた


 昨年は近くの公団の公園内に咲いている桜の木が諸事情により撤去されるというので、いつものメンバーで最後の花見の宴を催した。重箱におせちのように詰めていく小さい俵型のおにぎりとか、あまりもののきんぴらとかちょこちょこ適当に入れて、息子のリクエストのカラアゲを朝から揚げて持参しそぞろに寄り集まり、子らは遊具の周りで遊び、親らはずっとシートの上でしゃべりつつ持ち寄ってきた缶ビールをどんどん空けていった。私は飲まないけど、そうやって外でのんびりと集ってあれはもう春の終わりのことだったな。そうやって過ごした雅な一日を思い出すねぇ

 今年もどこかいい場所があればまたやりたいなぁ 花見
 今年は桜餅作ろうかしら

 何年か前に一回「桜餅キット」ってので手づくり桜餅を作ったことがあって、あの桜餅の本体(その表現は正しくないような)は道明寺粉というものでできていて、それはさすがにキットだったから材料も揃ってたし当然のごとく上手く出来てひじょうにデリシャスだった。でもその道明寺粉って探してみたらそこそこする上に桜餅以外の活用法ってあまりなさそうで、桜の葉の塩漬けもあまり扱っているスーパーがない

 ので、このさいともち米で無理やりやったことがあって、でもやはり道明寺粉の貫禄には負けてしまうというか、桜餅独特の感じではややなくなってしまうんでピンクのぼたもち(色は赤色色素を使うんですけど、ちょっと入れすぎると桜でんぶぽいおもちゃじみた彩が出て、ほんのかすか〜に色粉を加えなくては桜色にならないのでかなり細心の注意がいります)でしかないんですが、もち米だったら量ができるからという発想は邪道ではあるけど質より量だ!桜餅もどきでもムードだけは盛り上がるし、食べれればそれなりに満足という点ではそこそこ及第点でしょうか。ついでに残っているきなこも使って、きなこぼたもちとノーマルあんこぼたもちも作って3種類を、みんなで桜の下でほおばるというのもいい感じだ
 ところでぼたもちで思い出したこと
 専門学校生だった時私は当初いそいそと弁当を持って通っていたんだけど、その中身に私本人はぜんぜん覚えていないけど(だから後日その友人に教えられて自分がそんなことをしたのかと知ったしだいで)弁当にご飯とおかずと何を思ったか商店街の市場で買ってきたおはぎ(あ、自分で作るとぼたもちなのだけど、それを買うとおはぎとしている認識を自己では採用)を2個入れて学校へ行き、その一緒に食べていた友人におはぎ1個をにこやかに「どうぞ」とふるまったという経歴を持っている

 友人は内心学校の教室で昼休み隣りの弁当からおはぎが出るとは!と やんわりどぎもを抜かれていたらしいが、私はそれをさもありなんと勧めていたため微妙な奇行に何も言えず、とりあえずふたりでもくもくとそのおはぎを食べたらしいのだが、しばらく経って「あれは可笑しかったよ」とさりげに忠告されたがそれを聞いても、私がそんなことをしたという記憶はやはりまるでない
 ただその前日におはぎを買ってビニール袋をぶら下げて自宅へ帰るところまではいまでも不思議と覚えており、なんかうれしすぎてわけがわからなくなり思わず弁当に入れれば堂々と学校に持っていけるという発想があまりに私の中で妙案だったので、おそらくそこに歓喜し躊躇するための認識がすっぽり抜け落ちてしまっていたのだろうと推測及び分析されるのだがどうだろう

 だけど少なくともそういう気持ちにさせてくれるぼたもちなのだから、桜の下でみんなに大手をふってふるまえるなんて考えるだけでうれしくなってしまう
                   *  
 明日はいつもの寄り合いメンバーで寺に散歩に行く予定。ぞろぞろとお子様も引き連れて、本当の目的は全員が当該祈祷あり(年を経るということは皆それぞれに様々あるもの)で参るための下見の見学をしに行くのだけどね 
 その時にでもまた「今年も、花見しようよぅ」とおそらく誘ってしまうことだろう
 われらにこの世の春がやってくるなれば、それはやはりもれなく謳歌しなければ たとえばとてもとても微少な浮かばれなかった魂のためにも