フィギュアスケートと私
今夜はフィギュア女子が気になるところですね
というわけであって、そうでもなくても、いつものことかもしれないけれど堂々と夜更かし
安藤選手ひとりしか女子で出来ないとされる四回転を「失敗してもしなくてもやります!」とすっぱり言い切ってくれた ミキティはやはり肝がすわってるな
最近のスポーツ選手のオリンピックとか世界大会でのモチベーションは、ある意味ふっきれていて爽快 だけど、そこで自己満足だけなのかというとそうではなく、ちゃんとココロの奥で背負うべきものを背負っている度量というかそういうのが、若い選手でもそれなりに備わっているみたいで、重圧とかプレッシャーで見てて気の毒というケースはあまりみられなくなりました
ある時フィギュアの世界に足を踏み込み、それからはあくまで一途に一筋にフィギュアというある種 生活感のない世界とともに生きて暮らすというストイックさは、誰彼にも真似できるものではないもんね
私にとってスポーツはまんべんなく縁遠い存在であって、だからスポーツの何ものも何たるかもわからないけど、そこにそういう生きる人のーひとすじの光明ーを見てしまうとやはり人っていろいろあって愛しいものだわ とか感じ入ってしまう
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そういえば、幼少のみぎりに私は友人宅でその姉と友人につるし上げられたことがあって、それは単に私の信じ込んでいた世界が現実という客観の視点で地に落ちた初めての体験でした。いわば魔法の石がただの石になった瞬間の孤独に、私はその場で声もなくへたりこんだわけです
彼女らは口々にその場をはやし立て嘲って別の部屋に去って行き、姉妹らに取り残された異物の私はそこから帰るにも帰り道がわからないくらい幼かったということもあって、その部屋にとどまりました
その時辺りを見回すとその部屋は友人姉妹の部屋だったため、まだ使い慣れていない学習机があって、当然のように文房具一式もそろっていました。そして、私はそこにあったただの白い紙に次々と絵を描いていきました。私はゼンゼン泣いたり取り乱したりはしていませんでしたが、本当は泣きたいような気持ちであっただろうとは思います。だから、あふれるように描きました。たぶんお姫様の絵だったと思います
しばらく経ってその姉妹が部屋へ戻ってきてその絵を見たときに、私は自分を取り戻しました
彼女らが私を賞賛し始めたからです。最初はどうしてこの絵が、こんなにもさっきまで私を批難ごうごうしていた彼女らを変えてしまったのだろうかと不思議に思いました
しかしあれから、どうやら私にも自分にしかできないことってのがあって
他の誰かにはできないけれど、自分には何故かできてしまうということは
それを私は自分と自分以外の全てのために、ある意味使ってしまわなければいけないのかもなぁとか思うようになりました
だからフィギュア選手の人たちはそこに入った以上はそういう宿命を、いやがおうにもしょっているし、また、それはさまざまな人の持つ可能性を導くものでもあって、そこにある現実と非現実の境で人として立つということもわかりやすく見せてくれるような気もします
芸は身を助くではあるけど、それだけでは立てませんしね
そこでイナバウアーだとか、自分だけしか滑れないストレートステップを踏むとか連続高速スピンをするということを、いかに我がことに置きかえて盛り込んでいくかフィギュアスケートを通じて見てみたいようなそんな気がするフリープログラム
だいたいスケート靴を履いてただスケーティングするだけでもけっこう大変なんだから、それで回転だのジャンプだの技を磨いてくりだすなんてただゴトではないんだもの そこらへんは運動音痴としてはただただ素直に感服いたします はい
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荒川選手の滑らかなスケーティングにオリンピックの女神が舞い降りましたね 演技中何回かとりはだものでした。今大会初及びフィギュア界初の金メダル!しっかと見れてすがすがしい寝不足です
村主選手の繊細さも際立っていたし、ミキティのチャレンジスピリットにも喝采 スタンディングオベーションを パチパチパチ