おじいちゃんとタコ

okimituki2006-02-13

 あれは夏の頃だったかな
とても昔だけど、すごくよく覚えていること


 何回か魚連へ行ったことがある
トラックかバンみたいな車に乗って
 埠頭の船着場近くにあった魚の競り市のこと
うちのおじいちゃんが寿司職人だったから
 ネタの仕入れに毎日通っていたらしく
私も小さい時ちょこっと連れて行ってもらった
 それが何故だか妹はおらず
私ひとりだけが連れ添っていた記憶


 競り市は指を立てたりVサインをしたり
意味不明な言葉を早口でしゃべって取引してて
すごく摩訶不思議ワールドな感じで
 そこに小さい女の子がいるというのも珍しいことで
だけど、誰も話し掛けてきたりはしなかったと思うし
 おじいちゃんも仕事中は遠くにいて
私はぽつねんと後ろのほうからそのへんちくりんな世界を
ひたすらぼーっと眺めていた


 こわれそうなうすっぺらな粗末な箱に砕いた氷が張ってあって
その上にざぶっと魚がぶちまけられていた
 色んな魚本体や箱には紙切れが貼り付けてあって
買った人の名前のようなしるしとか、
値段かなんかの数字がマジックで書かれてあった
 長靴を履いて、作業着を着て
みんな同じようなエンジ色の帽子に数字みたいなプレートをつけていた


 そこは海がすぐそこだったから、潮の香りがしていた
天気のいい日に行っていたような気がする
空が青かったし、雲もぽっかり浮かんでいた
 のどかな風景だった

 
 おじいちゃんはいくつかのネタを仕入れてきて
海のそばのところにトロ箱を置いて
ちょっと見ているようにと言って、その場を去ってしまった
 その中に大きなタコがいた
私がこんなに近くでみたことのないような生きているタコだった
 うねうねとそのタコが箱の中を気味悪く動いて
しだいにその箱のヘリに吸盤のついたあの何本ものアシの一本をかけた


 そこからはあっという間だった
そろそろと順調に這い出し、埠頭のコンクリートも滑るように進み
するりと海へ浸水していったのだ
 その所作はとても優雅で特撮映像でも見ている気分だった
たぶんじかにはめったに見られない光景だろう
 私はいつになくドキドキとして
そのタコの行方に視線はクギづけとなっていた


 そのちょうど浸水するあたりでおじいちゃんは現れ
私はそのタコを指差すことくらいしかできなかったのだが
 おじいちゃんと目と目を合わせて
あ〜あと言う落胆は分かち合ったが
あとはお互い黙ってしまって、何も言わなかったような気がする


 そしていつも飲む瓶入りのミカン水を飲ませてもらって
また車に乗り込んで帰っていった


 いまでもなんだかあの逃げたタコのことは鮮烈に忘れられない
キレイな海に入ったときの沖へできるだけ遠くへ
早く泳いで行こうとする姿もイキイキとして
九死に一生を得るって感じだった

               *

 おじいちゃんは10年以上前に亡くなった
 私は実際の最期の頃のことは伝聞でしか知らないけど
発狂して亡くなったと聞いている
 戦争の時は潜水艦の料理番をしていたといい
寡黙なひとだったから何も言わないで
潜水艦を上がってからは
ただただ寿司を握り、黙々と働き続けていた

 
 私にとってのおじいちゃんの思い出はそれ以外ほとんどないせいか
あの時のタコと少しダブって思えてしまう
ようやく解放されて海へ還ったのだと
きっと押しつぶされそうに苦しいものを抱えていたのだと


 だから海の底はもしかしたら暗くて冷たいのかもしれないけど
今度こそのびのびとできる場所が見つかればいいのにと思う
 おだやかでぽかぽかとした風景の中の
あの私とおじいちゃんだけしか知らない 逃げたタコの後ろ姿のように